平和を考える『見よ、それはきわめてよかった』

                   札幌東ブロック 主任司祭 松村繁彦

 

   日本カトリック司教団による書籍 『見よ、それはきわめてよかった』(カトリツク

  中央協議会)が今年の7月4日に発行されました。教皇フランシスコの回勅 『ラウダ

  ート・シ』を主としてその他の回勅や使徒的書簡、ならびに2019年のフランシス

  コ教皇日本訪問のテーマである「すべてのいのちを守るため」の精神を受け継ぐ日本

  全体の課題として、今回日本の司教団が私たちに提示したものです。信仰を生きる中

  で創造主を讃えるための大切な視点で、神から与えられた人類の使命でもあり、アシ

  ジのフランシスコの精神を受け継ぐものでもあります。司教団は2017年に以前発

  行された「いのちへのまなざし」を改訂し、また一歩進めて発言されています。この

  書籍は倫理を「人間の生命」の視点で捉えた日本カトリック教会に対する教えであっ

  て、今回は同じ倫理を「地球環境」の視点で論じています。単なる 環境(エコ活動)

  問題ではなく、それを信仰とキリスト教倫理の中で捉え、総合的な環境倫理(インテ

  グラル・エコロジー)として伝えようとするものとして私は受け取りました。

 

   さて、被造界の全ての事を把握できていない私たちに、神の悲しみや隣人の悲しみ

  を喜びに変える為には「観る事」「識別する事」「行動する事」の3段階で進むよう呼

  びかけています。今回は書籍の内容に入る前に、この3段階について観てみましょう。

  内容については書籍を購入して是非読んでほしいと思います。少し難しいですが。

 

   「観る事」とは単に“見る”こととは違うでしょう。“見る”とは目に入るという現象

  を指していることが強く印象付けられますが、“観る”とは自ら受け取りに行く行為に

  近いのではないでしょうか。つまり「意識する」という事なのです。実際にそうしな

  いと記憶にまでは残らないでしょう。目で見るだけではなく頭に取り入れることが大

  切で、それを課題として捉えるのか、見過ごしていいものなのか、考えることを放棄

  しないことを呼びかけています。 

 

   「識別する」とは神の思いを私たちの考えと同じテーブルの上にのせて選択してい

  く事でしょう。人間の考えは民主的・合理的・打算的、はたまた慣習・制度、結果自

  分に都合の良い方向を選びがちであり、どうしても社会経済や限りある能力の範疇で

  判断してしまいますが、全能の神の思いの視点なしに私たちは判断してはならないの

  が「教会」の歩みなのです。イエスも弟子も「聖霊による促し」「聖霊による識別」

  を求めて歩んでいたことを思い起こしたいと思います。イエスならどのように考え

 ・応えるか。聖霊の導きを願うのです。                     

 

  「行動する」とは、すべてのいのちと共に生きるという継続性と、そのいのちに対

  して責任を取るということを示しているように思えます。単なるボランティアではな

  く、そこには修道性 (ベネディクト)の中に見る"Ora et Labora  (祈り・働け)”が

  常に両輪となっていることから、動くこと無しに祈りの完成は無いという事でしょう。

  そして一つ一つに自分も責任を持って歩むという事です。だからこそよく祈り、よく

  考え、良く動けるのです。

 

   全ての被造物は固体だけではありません。川や海といった液体、空気や大気とっっ

  た気体も含めて、いのちに必要なものすべてを神からの賜物として、私たちも大切に

  し(愛し)責任をもって関わっていくことが求められます。しかし利便性の為にその

  いのちを殺していることに気づいていません。今一度、今の世の中を眺めながら、

  環境倫理として、私たちの生命倫理と同じように向き合っていく事を考えてまいり

  ましよう。

 

   これらはイエスが生まれてきて伝えたかったことの一つであることは間違いありま

  せん。是非、クリスマスに向けて回心と黙想の中で、被造物から与えられている恵み

  を、感謝をもって抱きしめることができるよう、ともに励んでまいりましょう。

 

                             ざびえる361から

マリアはイエスを隠し、イエスはマリアを隠す』

            東ブロック協力司祭 森田健児

 

 聖書に「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」(マコ3章)と書かれています。親戚や故郷の人々はヨセフの子イエスは知っていても、イエスが何者であるかはまったく知りませんでした。なぜでしょうか。

 理由のひとつは、イエスの命が狙われたことがあったからでしょう。ヘロデ大王は生まれたイエスの命を狙い、3人の博士たちからも情報が得られず、おそらく徹底調査したけれども見つからず、とうとうベツレヘムと周囲の子供たちを皆殺しにしてしまいました(マタ2童)。そんな子供がまだ生きている、と知ったらどうなるでしょうか。

 ヨセフやマリアが、天使のお告げやイエスの受胎の秘密、三人の博士の来訪などについて少しでも周りに漏らせば、うわさは巡り巡っていずれ王の役人の耳に入るでしよう。

 当時はイエスを知る人はもはや誰もいませんでした。3人の博士も羊飼いたちも。なぜならヨセフが夢で天使のお告げを受けて、母子とともに夜ひそかにエジプトに逃げ、その後ベツレヘム一帯で子供の虐殺が起こり、もはや博士や羊飼いでさえも幼子が生きているのか、どこにいるのかわからなくなっていたからです。イスラエルでただヨセフとマリアが知るだけでした。この二人が口を閉ざしていれば、イエスの命は守られます。目立たないナザレはイエスが世に現れるまでイエスを隠して

おく役目も果たしていたように思います。

 イエスも同様に、人々の目からマリアをそらせます。母のことが話題にあがるたびにイエスは「神のみ心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(マコ3章)というふうに話されました。神のみ心を守る人こそマリアなのですが、イエスはそれに触れず、幸いを皆の方にふり向け、マリアをお隠しになります。

 ナザレにお帰りになったときには「預言者が敬われないのは自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マコ6章)とおっしゃり、マリアもイエスのことを知らなかったかのような発言をなさいます。マリアが知らなかったことにしておいたほうが良かったのかもしれません。そうでなけ

れば、親戚や故郷の人たちはイエスのことをマリアから聞きだそうとし、イエスが三人の博士から「ユダヤ人の王」と呼ばれたあの幼子であることを知るに到るでしょう。それはほどなく王の耳に入るに違いありません。イエス在世中はヘロデ•アンティパス王が治めていましたが、この王は洗礼者ヨハネを殺した王でもあるのです。

 ナザレ訪問の最後には、イエスが憤慨したナザレの群集に、崖から突き落とされそうになりました。そんなこともあり、イエスはマリアを守るためにも「マリアは無関係」ということにしようとなさったのではないでしょうか。

 このように、絶えず命の危険と隣り合わせに生きてきたイエスをマリアは隠し、守っているように見えます。同様に、イエスがマリアを隠すのも、マリアを守るという理由がひとつにはあったのではないでしょうか。

                                                             (ざびえる360号)


『アフリカカトリツク教会の重要性について』

                          東ブロック協力司祭 ケン・スレイマン

 

 8月の中で、私は2回目のアフリカカトリツク教会の訪問をすることができました。それは私の国際カトリツク看護協会の任された仕事の関係で行きました。6年前に南アフリカのスワジランド王国に1週間訪問して滞在していました。今回はケニアのナイロビ教区を訪問し、滞在しました。この2回の訪問から得た印象は、神様からいただいた喜びとカトリック教会に対する尊厳の気持ちを感じました。この短い論文の中で、アフリカの大切なカトリック教会の貢献について皆さんと共有したいと思います。

 

 なぜアフリカのカトリック教会が大切だと皆さんは考えますか?それは現代、2億3千万人のカトリック信者がアフリカの各国に住んで生活しているからです。それは世界のカトリック信者の1/6を占めています。本当に素晴らしいですね。また、ナイジェリアの国の中の神学校は世界の中で一番大きな神学校です。そのため、アフリカから世界中の様々な場所に神父として仕事をしにいきます。アフリカ出身の神父がー番多く仕事をしている場所はアメリカです。100年前にアメリカの宣教師たちがアフリカに行って福音宣教をしましたが、現代では、アメリカの神学生が少なくなり、アフリカの神父たちがアメリカを助けるためにたくさん来ます。それはとても感謝すべきことがですが、この弱点はアフリカで働く神父が少なり、ブレインドレインになってしまうことです。アフリカ教会の歴史は2000年前から始まりました。西暦50年にエジプトのアレクサンドリアは最初のカトリック教区を創立しました。マルコ(マルコによる福音書)が最初の司教様だったそうです。また、エチオピアで福音宣教を行ったのは天使を通してフィリポ助祭でした。そしてエチオピアの定官に洗礼を授けたそうです (使徒言行録8 : 26-40) .アフリカでの福音宣教は1世紀から始まりましたが、6世紀にイスラム教が誕生し、北アフリカで大きな影響をもたらし、キリスト教信者は南の国へ避難していったそうです。しかし東洋の教会はまだ北アフリカでも多く残っています。

 

 実は、旧約聖書によるとアフリカはカトリック教会にとってとても大きな貢献をしたことがわかりました。例えば、アブラハムとサラは生き残るためにアフリカにきました(創世記12 :10-20) .またエジプトのヨセフの物語(創世記37・50章)もありました。彼の役割のおかげでユダヤ人たちは420年くらいエジプトで安全に生活することができました。そしてこの歴史からモーゼがエジプトで生まれました(出エジプト章)。ソロモン王の時代は、シェバ女王がエチオピアから新しい神殿をみるため

にエルサレムに訪間したそうです(列王記上10章)。もちろん新約聖書の中では、聖家族がヘロデ王の迫害から逃れるためにエジプトの避難所で10年くらい生活していたそうです(マタイ2章)。本当に、わたしたちはアフリカに感謝をするべきですね。

 

 皆さん、私はカトリック北1条教会の英語のミサの担当です。約15年前から北大の留学生のプログラムを通して、アフリカのカトリック信者たちが教会に熱心に参加していることを感じていました。現在は20〜30人くらい来てくれています。彼らは自分の信仰と喜びを通して教会に貢献を与えています。彼らは純粋な信仰生活を日本で送っています。どうぞ皆さん、カトリック信者として、兄弟姉妹として同じ心をもっておもてなしをしていきましょう。

 


 

『信じること、祈ること、生きること』

 

                                                 東ブロック助任司祭 ペトロ千葉 充

 

 

 九月を迎えると秋へと季節が巡り、夏とは違う、なんだかゆったりとした空気感が漂う感じがします。この時期、ゆっくり散歩をしてみたくなったり、喫茶店に立ち寄りたくなったり、学生の頃からそんな気分にさせる季節でした。

 

 また、九月に入るとそれぞれの教会でも敬老の日に合わせて、ささやかなお祝いを準備されていることでしょう。教会で出会うご高齢の方々と、ミサ後のわずかな語らいの一時に、昔の教会の出来事や、入信に至った経緯など、いろいろと聞かせていただく時間を楽しみにしています。ご高齢になって、ゆったりとした時間の流れの中で、いろいろな事を見ておられるのでしょうか、穏やかさと建かさを感じ取ることができるー時となっています。

 

 祈るとき、自分の心に「ゆとり」を保てているだろうか?

 

 最近、このことを思い巡らしながら、自分の生活を振り返っています。毎日の「朝の祈り」の時も、心の中は随分と慌ただしいように感じます。個人的にいろいろと祈りの意向があって、それを限られた時間の中でいっきに押し詰めて、なんだか騒々しく終わっているような気もいたします。もちろん、嘆願の祈りも大切な祈りなのですが、時々には落ち着いた、靜寂の時の流に身を任せるような、そんな祈りの時を大切にしたいものです。

 

 まだ神学生のとき、東京で出会った方から「どのようなお祈りをすれば良いのでしようか?」と尋ねられたことがありました。それに対して,「ご自分を神様の前に差し出してみる」、そんなつもりでお祈りしてみるとどうでしょうかと応えてみました。

 神のみ前に差し出される自分とは、ありのままの自分の姿を、しっかり認識することにもなるでしょう。僕自身は、特別に祈りについて語れるほどの知識・経験もありません。あくまでも、自分が「そうだといいな」と思う、理想を語ったままですが、

『祈りの法は、信仰の法(lex orandi. lex eredendD』という言葉があります。祈りと信仰とは互いに一体であることを教えてくれる言葉ですが、祈ることと信じることが一つとなって、私たちを形成していく、そのように受け止めています。

 

 単純に『祈る手法」だけなら、言葉を声に出して唱える「口祷」や、沈黙のうちに祈る「念祷」があるでしょう。また、共同で捧げる祈りとして、「典礼」も祈りの手法として見ることができます。その際に、身体の動きで祈りを捧げること、例えば「手を合わせる」「十字を切る」、「お辞儀をする」、こうした所作も祈りの手法と言えます。

 

 私たちは、いつも声や身体を通して、様々な手法で祈るのですが、そこに意思が伴っていることが大切なのだと思います。私たちは知性や感性を用いて、何かを考え、何かを感じながら生きています。そして、この知性と感性によって何かを決心します。人生の大きなことから、生活における小さなことまで、何かを選ぶという二とは、生きていくことの一部となります。こうした選びのときに、私たちの意思は働いているでしょう。生まれたばかりの赤ん坊も、年を経て体力が劣っても、最帰まで章思の働きは続いています。意思を通して生きていることが証しされると言っても、過言ではないでしょう。

 

 さて、この意思の働きが、信仰と祈りに非常に大きな関係があるように思います。祈ることとは、「心を神に向ける」とか、「神との深い交わりjという心理的な理解だけに留まらず、私たちの意思が伴った行為として、生きた人間としての祈りなのだという、実存的性格をもった祈りこそ、私たちキリスト者にとっての「祈ることjなのだと思います。

 

 実存的な理解をもって祈りを考察してみると、そこには当然[信じる」ということが一体となっています。そして、信じることと折ることが『生きている』ことと結ばれることによって、信仰と生活かー致し、私という存在が一つの大きな析りになるのではないでしょうか。

 

 [何をしたかjといったことを追い求める成果主義ではなく、どのような意思によるのかという視点で、生活を撮り返ってみるとき、白分の姿を深く見つめることができるでしょう。そして、自分の意思のはたらきのなかに、信仰が伴っていくのではないでしょうか。

 

 時々に、ゆったりとした時の中で、このような自分を見つめてあげる時間而をもちたいと思っております。

 

                                                                                                                                 ざびえる358号から



『鬼にお尋ねします。永遠とは何ですか?』

             東ブロック主任司祭 松村繁彦

 先日あるアニメを見ていて気付かされたことがあった。

    そこでは人が鬼に対して次のようなセリフが語られた。「君は『永遠』を知っているか?」との問いであった。自分にも向けられたのかとハッとさせられた。もちろん私は鬼ではないのだが、文化人類学において鬼や妖怪などは人間の弱さの中から生まれたのではないかとの説もある。だから私の弱さ (人の中にある鬼性・妖怪性)に対して語られたと思えば、あながち自分に語り掛けられた質問といっても過言ではないだろう。

    さて、弱い人間にとって、『永遠』とは強さを示す一つのキーワードであり、それは“不死"とか“変化しない”という人間的な強さへの憧れではないか。“変化しない”とは今を変えることが自分にとって悪であるとの思いなのだ。それは 【不変】を愛することではあるが、【普遍】を愛することではない。ご承知のように【カトリック】=【普遍】という意味である。つまり【普遍】には変化はある (典礼や新しい教義等)が、永続性は別のところに存在する。

    だんだん難しくなったので話を元に戻そう。アニメの中で心を打たれた答えは次のとおり。「永遠とは人だけが持つつながりと絆」と。時間の中で鬼も人も死をもって一つの区切りを迎える。しかし鬼は身勝手でそれぞれ単独で動くものであり、そこに愛による絆は存在しない。だから鬼の頭が死ぬと残党は散るだけであり、すべていずれは成敗される。しかし人は違う。 一人の人が死んでも、それを受け継ぐものが現れる。思いが引き継がれる。愛の絆を持つ人類は、必ずそれを受け止めて生き、伝えていくことで途切れることはない。実際私達のキリスト教は弱まる時代や時期があっても途切れてしまうことは歴史上なかった。キリストの意志を命を懸けて繫ぎ、その絆が存在する以上私たちは次へも続く。これこそ永遠なのだろう。愛の絆はキリストが父なる神から受け、私たちに伝えてくれたもので、『永遠』=「愛の絆」なのだ。この『永遠』は神の中にあり、神のもとから私たちに与えられた愛そのものでもある。そして死しても神との絆が残る。それが永遠のいのちとなるのだろう。私たちは今後もそれを生かせられるのだろうか。

     8月に入ると日本の教会は 「平和旬間」を迎え、また終戦を思い起こす。「人のつながりと絆」という特性を代々持ちながらも人は戦争を行う。ヨハネ・パウロ二世の語った「戦争は人間の仕業」と言うけれど、人間の中にあるf鬼性•妖怪性」による仕業なのだ。そこには人を鬼化•妖怪化させる何かがある。「人の思い」「人の絆」を無視するもの。自己防衛(自己生命尊重主義=死への怯え)だけに力を注ぐもの。それこそ諸々の欲に対する無防備な私達。平和を築くためには、私たちのあらゆる欲に対する回心が出発点であり、具体的な取り除き作業が社会平和活動なのだ。平和を求めるとき「平和活動」だけに留まる教会ではなく、人間が持つ醜い部分(鬼性•妖怪性)に目をやって、欲や怯えから解放され、それを語り部として次に伝えていける平和旬間になってくれればと願っている。 

                                                                                                                              ざびえる357号から   



『 イ エ ス の 渇 き 』              

                                                            東プロック協力司祭   森田健児

 

 最近教皇フランシスコはミサに関する書簡『私はせつに願つていた』(カトリック中央協議会)を出しました。表題は、ミサの始まりと言える最後の晩餐を、イエスが弟子たちとともにするときにおっしゃつた言葉です。

 

 『苦しみを受ける前に、あなた方とともにこの過ぎ越しの食事をしたいと、私はせつに願つていた。」(ル カ 22章 15節 )教皇はこの書簡の中でたいへん印象的な言葉を使つています。ミサの中でイエスが私たちをゆるし、いやし、救い続けることは「十宇架上で宣言されたように、私たちへのご自分の渇きをいやす手段なのです」(同書 18ペ ージ)、と教皇は述べます。イエスは十字架上で「渇く」とお叫びになりました (ヨハネ 19章 )。

 

 フランシスコ教皇はこの言葉を、「私たちへのご自分の渇き」と表現しているわけです。そして、ミサの中でご自分のみ言葉を私たちに与え、おん体とおん血を糧として与え、私たちを満たし、ゆるしや癒しを与えることによって、「私たちへのご自分の渇きを癒す」ということなのです。これは驚きの表現と言えるでしょう。私たちがイエスに振り向き、イエスを信じ、イエスに従うことでイエスは渇きが癒されると言つているのではないのです。イエスが私たちに与え、許し、満たしたときに、イエスの渇きが癒されると言つているのです。フランシスコ教皇はかつての公文書の中では見られなかったような表現をすることがありますが、この度もそのひとつであるように思います。

 

 今の時代は多くの人が物質的にもそうですが、霊的にも飢え、渇き、苦しんでいます。そのような飢え潟きをご覧になつて、イエスは心が潰れそうな思いなのではないでしようか。私たちの飢えを満たし、渇きを療したい、という思いがイエスの飢え渇きだとも言えるでしょう。ミサの中で私たちの飢えを満たし、渇きを癒すことができることで、イエス自身の飢えを満たし、渇きを癒していることにつながるというわけです。教皇が「 十字架上で宣言されたように、私たちへのご自分の渇きをいやす手段なのです」とおっしゃるのはそういう意味です。

 

 またこの文書の中では他にも印象的な言葉があります。私たちがミサに参加する理由の第一は、私たちを集めたいという『キリストの強い望みによつて引き寄せられる」(同書 11ペ ージ)のがそれだと言います。またその望みに対する私たちの応答は、「キリストの愛に自らを明け渡し、キリストによつて引き寄せられるがままにすること」(同 11ページ)だと言います。この「引き寄せられるがまま」というのが大変印象的な言葉です。吸引力は私たちよりも、むしろキリストの心のほうが強いのです。困難を極める時代にあつて、私たちを愛さずにはいられない、救わずにはいられないという神のあふれ出る思いは、教皇のあふれ出るような言葉によつて私たちのもとへ届けられます。私たちが主であるイエスに潟きを痣していただくことによつて、逆にイエスの渇きを癒すことができるのであれば、これほど幸いなことはないといえるでしょう。

                                                                                                               ざびえる356号から          

 




         『ケン神父の6月のメッセージ』                                                                                                                                       東プロック協力司祭   ケネス・スレーマ ン    

  6月は私たちにとてとても大切な月です。それには 2つの理由があります。 1つ日は、6月15日 は私ケン神父の誕生日です。おめでとうございます。 2つ目は、イエス様の御心の祝日があるからです。私はイエス様の御心の 月に生まれて嬉しく思います。しかし、今年の喜びは 2つ の戦争によって、少し薄らいています。母の日の夜に、私はフランシスコ教皇様のニュース番組でのインタビューを見ました。彼も現在のこの世界の戦争の雰囲気に深く関心を持たれています。インタビューの中で、彼は毎晩Z00Mを使用して避難民と会話しているそうです。これは避難民の信者たちを勇気づけるためです。

 その中で彼がショックを受けていることは、子供たちが笑顔を失ていることです。この教皇様のインタビューを見て、私はとても寂しい気持ちで濃れました。そして私たち日本に住んでいる信者たちが、この幸い現状を支援するために何ができるか考えました。私たちは笑顔を持ち続 けるべきです。今回のメッセージは、笑顔についてのカトリック教会と聖書の歴史について皆さんと共有したいと思います。  数年前 、カトリック月寒教会の信者たちと、フランスの巡礼に行きました。ルルドと聖ベルナデッタのネヴェア修道院にも行きました。 どちらも無原罪のマリア様の御像があります。そして、ツアーガイドさんからおもしろい話を聞きました。ルルドにあるマリア様の御像は笑顔ではなかたので、聖ベルナデッタはそれに満足していませんでした。そのため修道院でベルナデッタの強い想いで、マリア様の実顔の御像を造て庭の中に置いたそうです。ベルナデッタにとてマリア様の笑顔は大切でした。なぜならベルナデッタはマリア様と話す前に、マリア様がベルナデッタを笑顔で迎えたからです。  私個人の体験ですが、ルルドに 2回行きましたが、ルルドは聖なる雰囲気があり、自然と笑顔が溢れる場所で帰りたくないと思う場所でした。とても神秘的な気持ちになたのを強く思い出せます。もう1度行きたいと思います。聖マザーテレサにとって笑顔は大切なものでした。彼女は自分のシスターたちに笑顔は愛の業であると教えました。

 彼女は多くの国で活動したので、言語はわからなくても、笑顔は重要なコミュニケーションであると学びました。

 2016年、フランシスコ教皇様は列聖式での説教の時に、マザーテレサの実顔について話しました。  教皇様は「彼女は、言葉はわからないけど、笑顔で接することで彼女の愛の心を現すことができる。」と言いました。

 最後にイエス様の笑顔について考えましょう。福音の中でイエス様が集顔であた箇所は記録されていませんが、2回泣いた箇所が記録されています。「ヨハネによる福音書 11章 31節」と「ルカによる福音書 19章 41節 」です。しかし、イエス様は愛いぱいの人格者であたので、彼は笑顔であたと私ははつきりと信じています。例えば、御復活の後でマグダラのマリアに初めて会た時に、彼は彼女に徹笑みかけたのではないでしょうか ?また同日、弟子たちに会た時に、部屋の中で実顔であったのではないでしょうか ?

 またイエス様は子供たちとハグしていたときに、彼は笑顔であたのではないでしょうか ? そしてカナの婚礼の時に、自分の初めての奇跡を行た後に、母親に笑顔を見せたのではないでしょうか ? イエス様は皆に笑顔でいないさいという掟はありませんでしたが、山での説教の時に、「あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。」と言いました。旧約聖書の中でも笑顔について 31箇所ほど記録されています。それは笑顔より喜びの雰囲気で記録されています。その中でモーゼは国民を勇気づけるために、「主が御顔を向けてあなたを照らすように。」(民数記 6章 25節 )と言ったそうです。この内容から、神様が私たちに笑顔を向けてくれるので、喜びが溢れます。これは私たちの召命でもあります。お互いの愛を贈るために言葉の前に笑顔でいることが大切です。この世にイエス様が来られた召命は、神様の愛を体現するためでした。私たち現代のカトリック信者たちもこの召命を続けるために、愛を共有する時はマリア様と聖マザーテレサとイエス様と同じように実顔でいましょう。ありがとうございました。                                                                                                                                                                                                                                               ざびえる355号から